医報とやま No 1406, p40, 18.5.1, 2006
その日暮らしのスズメ
加須屋 実
深い雪におおわれた富山平野を眺めながら、スズメは何を食べているのか、心配になったのはある日曜の朝だった。ペット屋に行くと小鳥用の餌というのがある。買ってきて餌台にたっぷり撒くと、どこからともなく30羽ほどが集まってきて、真っ黒にくっつき合って食べている。飢えているだろうに喧嘩するでもなく、ひたすら食べながらしかし何気なく譲り合っているようでもある。時に、隣の枝に一羽だけ離れて留まる個体がいるが、妻は見張りだと言う。なるほど、と納得する私だった。
一日働いて一日生きていける分しか生産できない、すなわちその日暮らしから人類が脱却したのは3万年以上前のことだろう。以来、生産性は向上し続け人生80年のうち前半は養って貰い、40年程度働いてあとはゆっくり生きていけるようになった。他の世代を養うことも出来るし、生きるために必要な生産活動(特に食べ物を直接生産する)を生涯しないで暮らす人(誤解を恐れるので具体的な職種は示さない)をも養えるようになった。まことにいい時代になったと思う。一方、紛争・戦乱の絶えない世界であり、荒廃に向かっている地球である。国境なき医師団やユニセフなどにわずかな献金をしてみても気休めにもならない。
あくせく働く日々に埋没しているうちはともかく、少し先のことを考えると不安な世相である。身近な不安から地球規模のそれまでの雑多な未来の不安は、自分一人が頑張ればどうにかなるというものでもないのでストレスが深まるのである。そもそも、スズメの心配まですることがおかしいのではないかと思いながらも、過重労働、過労死、過労自殺など、せめて働き過ぎて死ぬとか、働き過ぎて何のために働いているのか判らなくなるとか、そのような人生から脱却したいし、して欲しいと考える。その意味で、その日暮らしのスズメの気持ちになってみることも時には良いことではないか、と感じた雪深い日曜の昼下がりだった。
(かすやみのる・富山産業保健推進センター所長)